• 越之湖

    その昔、長さ4km、幅1km、周6km~10kmの大きさがあったと言われている幻の湖。かつては、大きな船が停泊していたり、越中国随一の景勝地であったと言われています。
    度重なる大洪水によって土砂で埋まり陸地になってきたところを稲田に変えられてきました。しかし、大雨になると川の水が逆流し、稲田が大きな水たまり池のようになってしまうため、椎名道三の指導を受けて工事が行われました。
    ※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」

    越之湖

    ※資料より

  • 田中冬二

    黒部が生んだ生地の詩人。田中冬二は生地温泉たなかやの分家にあたります。両親の死後も父のふるさとを「我がふるさと」とし、生地の親類を訪れては生地の生活を楽しんでいたそうです。
    「ほしがれいをやくにおいがする、ふるさとのさびしいひるめし時だ...」という出だしで始まる「ふるさとにて」は、ふるさと生地での記憶や景色を読んだといいます。
    ※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」

    田中冬二
  • 芦崎 西の宮

    生地鼻灯台横の「ガメ宮」がその起源と言われ、当初、真っ黒な丸い石をご神体として奉り、地曳網などの漁師の信仰のよりどころとなっていました。
    大正初めに現在の芦崎西の宮が建設され、「ガメ宮」の黒い丸い石のご神体とともに恵比須様をご神体として奉られていました。その後、「ガメ宮」の黒い丸い石のご神体は、西の宮に移されました。

    芦崎 西の宮
  • 北星の館(北星ゴム倉庫)

    明治中期から蒸気船の海の駅となった生地町は、北海道海産物が溢れる町となり、北海道通いのキリヒメ丸など、貨物船でもたらされるニシン糠や棒鱈などの保管倉庫として、大正時代に建てられました。
    現在も北星ゴム株式会社の倉庫として、一部活用されています。

    北星の館(北星ゴム倉庫)
  • 順昌寺

    浄土真宗本願寺派。明治中期に魚津よりこの地に移りました。当初の本堂は昭和9年の大火で焼失、現在の本堂は昭和28年に建立されました。当時は鉄筋コンクリート造りの本堂として、県下でもめずらしいお寺でした。

    順昌寺
  • 上町の宮

    1846年から椎名道三の指導の下、背戸川の大掘削工事が行われ、沼地であったこの地域の開墾に成功したことを記念して建立されました。その時に造られた日本一低い分水嶺を奉っているとも云われています。
    また、お旅の宮とも云われ、祭礼に際して新治神社のご神体のお休み処としても使われています。

    上町の宮
  • 城ヶ池(ジョウガラ)

    大正時代まで妖怪が出現し、湖底深甚怪魚等が住む等々の伝説もあって恐れられていました。
    城ヶ池は越之湖が泥土により南北にわかれた際の北の湖です。昭和54年にバイパス工事と背戸川改修工事のため埋め立てられ、昔の姿を見ることは出来ません。
    ※参考文献:昭和63年発刊「もしおぐさ」・わが町生地今昔

    城ヶ池(ジョウガラ)

    ※城ヶ池跡地周辺。今では田んぼのような状態です。

  • 日露戦争 忠顕碑

    日露戦争において勇戦した戦死者の供養のために、自治体で建立した碑。 日露戦争は日清戦争に続き、江戸時代の身分制度による武士の身分だけが戦うのではなく、民間人が軍隊に入隊し戦った歴史的な戦争だった。

    日露戦争 忠魂碑