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くろべ漁業協同組合の直販施設。とれたて館では、とれたて新鮮な魚や、塩物、水産加工品、黒部の特産品が販売されています。観光客がおみやげを買いに訪れるのはもちろん、新鮮な魚が手に入るとあって、地元の方も訪れます。
できたて館は新鮮な魚を味わえる食事処。航海灯では自分で魚を焼くこともできます。
富山県黒部市生地中区265
『できたて館』
・炭焼きレストラン 航海灯
TEL 0765-57-3567 営業時間 11:00~17:00
・寿司居酒屋 番家
TEL 0765-57-0430 営業時間 17:00~22:00
・テイクアウトコーナー
TEL 0765-57-3567 営業時間 10:00~18:00
『とれたて館』
TEL 0765-57-0192 / FAX 0765-57-0585
営業時間 9:00~18:00
http://www.jf-kurobe.jp/sakananoeki/sakananoeki.html -
背戸川はその昔、暴風雨の時に川の水が逆流し、稲田に水が流れこんで大きな水たまり池のようになってしまうため、二回にわたって大掘川工事が行われました。
弘化3年(1846年)、掘川開削工事を実施しましたが、工事は困難を極めました。そのため、十二貫野に来ていた椎名道三に応援を求め、アドバイスを元に大工事を進めたそうです。 この工事でよどみの害や浸水もなくなりました。さらに、嘉永6年(1853年)大野川と背戸川の工事が行われ、新しく出来た大野川を新川と呼ぶようになりました。
※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」 -
椎名道三翁の指導により、ようやく完成した背戸川で、当時沼地を開墾していた人々に大きな希望を与えてくれました。
この功績に準じ、昔から「しんなしの道」などと云われており、このたび「椎名の小路」と名付けました。 -
背戸川の工事の際、椎名道三のアドバイスで、海抜ゼロメートル地帯という低いところに作られた分水嶺。
現在も川の途中で東西に分かれて流れる個所を見ることができます。 -
前名寺天満宮は田村家が作ったお寺で、天神様が祀ってあります。この天神様は菅原道真が太宰府に流される時に嫡子が描いたもので、道真自身も手を入れていると言われています。初代田村善名是輝が授かり、子、是法が善名寺(後に前名寺と改称)を建設し祀られたそうです。庭には美しい「前名寺の清水」があります。
また、前名寺には俳人立器(りゅうき)の墓があります。立器は高名な俳人谷川護物に俳句を学んだ後、全国行脚し、泊町で金森洞雨と親しくなり養弟となりました。後に魚津市の大泉寺に落ち着き、俳句の指導に当たりました。立器の墓は、前名寺と大泉寺の2ヵ所にあります。
※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」 -
初代田村善名是輝は戦国武将越前朝倉義影の家臣で、織田信長に敗戦した際、子是法と共に生地に落ち延びました。
藩政期には、富山湾東部海岸の漁業・海運の一切を統括していました。明治23年、田村惟昌は国会開設後初の衆議院議員に当選し、4期6年半勤め、その後富山日報の社長(明治33~35年)を経て、大正4年に生地町長となり、70歳で死去するまで、町の開発、指導にあたりました。
※参考文献:蛇沢道雄氏記 -
富山県神社誌によると、享徳年間に天照皇大神を祭神として社殿が造営された、と記されています。今から約450年前(室町時代)に創設されたということになり、生地では新治神社に次いで古い歴史をもっています。
春秋の祭礼では新治神社御神輿の巡業宿泊所にも充てられていますが、独自の祭礼に「百石六斗祭り」があります。祭礼の始まりは諸説ありますが、いずれにしても開墾成功に伴う実りの喜びと、氏神様への感謝を表すものだったと考えられています。
※参考文献:平成元年発刊「ふるさと生地の歴史点描」 -
生地集落の中央に位置し、寺の裏は富山湾。瑞鳳山と号し、真宗大谷派。文禄5年(1596年)飯沢村に建立したが、万治元年(1658年)黒部川の大洪水により、過去帳及び仏像などを流失してしまいました。
万治3年(1660年)生地村に移り遷仏会を挙げました。光明本尊(もと常陸光明寺蔵)、三方正面阿弥陀如来像(もと常陸国如来寺蔵)、金泥十字名号(もと三河国光西寺蔵)、聖徳太子騎馬絵像(もと甲斐福正寺蔵)親鸞聖人木像(もと信濃国西光寺蔵)などを譲り受け、現在いずれも寺宝となっています。
※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」 -
富山県黒部市生地377
営業時間 10:00~16:00
加賀藩十村役、田村家の沿岸漁業の振興、明治期以降の北洋漁業関連の歴史を展示しています。古い漁業や北方四島開拓の写真展示など、あまり知られていない歴史を見ることができます。
北方四島返還の署名をしていただいた方には、昔ながらの紙風船をお渡ししています。