かつて生地は「新治村」と呼ばれ、大きな湖が広がっていました。天然の漁港でもあった湖は、1327年の大洪水により泥土に埋まり、集落は海中に沈んでしまいました。古い歴史を持つ生地のまちには、さまざまな言い伝えや旧跡が残っています。往時に思いを馳せ、生地のまちの風情に身を浸してみませんか。
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金毘羅社には大変ご利益のある金毘羅大権現が祀られています。
文政年間(1818-1830年)お告げにより漁師は金毘羅大権現を海中から網で引き上げ、お祈りしたと伝えられています。その後、多くの人々に信仰されるようになり、生地の地区は栄え、魚も多くとれ、住民は安全な生活をおくれるようになりました。
今でもお年寄りから、海で遭難しかけた時に金毘羅大権現に願をかけて助かったという話を聞くことができます。
※参考文献:平成11年発刊「生地再発見」 -
昔は生地に火事が多かったのですが、仏海庵に安置されているお釈迦様は、近所に火難・災難の起きる数日前には必ずと言っていいほどに、庵主さんや数人の定まった信者にお告げをされたという不思議な話があります。お告げを受けた信者は寺に集まって話し合ってから近所に宣伝し、同信者はお釈迦様の前に集まって、災難除けの読経供養をしていたそうです。
※参考文献:昭和63年発刊「もしおぐさ」・わが町生地今昔 -
解脱庵には釈迦如来像が安置されています。
いつの時代の作かは定かではありませんが、能登の「たな」というところから新潟、更に魚津の常泉寺と、次から次へとお告げにより移るという数奇な経緯をたどり、最後に解脱庵へ移されたと言われています。
参考文献:平成11年発刊「生地再発見」 -
伝七マという屋号のおやじさんが漁に出たある日、石の地蔵をひろいあげ、家に持ち帰ったそうです。
最初、石の地蔵はあまり重くなくて軽石のようで、一夜明けてから近くのお寺の戒光院に運ぼうと、背中にしょって向かいました。 地蔵は戒光院の前に来ると急にずっしりと重くなり、その場所に降り立ち、そのまま安置されたと言われています。
参考文献:平成11年発刊「生地再発見」 -
この仏像は、京都にある本山の大僧正恵海上人の作と言われています。
粗末に扱われていた中、信心深い人の夢枕に立たれ、「我は阿弥陀堂の開祖の仏である。今、自分は火災にあって西ノ宮神社の通路に倒れた状態になっている」とお告げになり、行ってみると夢の通りでした。
仏像は供養され、町内世話役の神子田武平氏の土地の一部に石堂を建てて祀られたそうです。
参考文献:平成11年発刊「生地再発見」(「阿弥陀堂町の由来略文」より) -
生地は昔から火事が多く、防火意識を高める意味を込めて、火の宮が町の各所に造られました。火除宮はそのひとつで、現在は3ヶ所のみ現存しています。また、年に1~2回、火祭りが各町内で行われています。
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生地は昔から火事が多く、防火意識を高める意味を込めて、火の宮が町の各所に造られました。秋葉社はそのひとつで、現在は3ヶ所のみ現存しています。また、年に1~2回、火祭りが各町内で行われています。